okaa-tyannmatigaenn3naのブログ

一介のおたくが好きなことを好きなように書きます

キルラキルを読む・はさみ・切断すること・2は1で1は2

キルラキルには片太刀鋏というキーアイテムが出てくる。劇中で使われているこのハサミは、二つの刃が初めから一体になっている和鋏ではなくて、刃と刃それぞれに柄を付けてネジで固定した洋鋏になっている。それゆえに針目縫との因縁が出来るわけだが、ハサミというアイテムの象徴性について書いてみたい。

そも、ハサミというのは、二つの刃を一つに噛み合わせる道具だ。噛み合わせて、一つのものを二つに分かれさせる、つまり切断する道具だ。抽象的な言い方だが、「一つ」の終わりで「二つ」の始まり、すなわち『生キル』ことの始まりだ。たとえば一人の女性が妊娠すれば、その胎内にもう一つ命があり、都合二つの命がそこにある。そしていよいよ出産すると、へその緒をハサミで切って、ここでようやく本当の意味で一つだった命が二つになる。ハサミと生き物の誕生には大きな関わりがあり、そこでハサミは大事な役割を持っているのだ。

さて、この、ハサミの刃と刃を噛み合わせる仕組みは、顎の動きによく似ている。すなわち食べる動きだ。生きている以上生物は栄養を摂らなくてはいけない。食べなければ飢餓状態となり死んでしまう。『飢ル』である。食べて飢えをしのぐためには、獲得した食べ物は咀嚼できる大きさにまで『斬ル』必要がある。ゆえにハサミは、さきほどとは打って変わって死の象徴でもあり、生き物の業を端的に、比喩的に表したアイテムと言えるだろう。生きる上で必要な身体感覚にそれだけ密接に関わっているのだ。

始まりと終わりはつねに一体のものだが、『切って分かれることで何かが始まる』、という意味では、エジプト神話の大地の神シブと天空の女神ヌートの誕生、ギリシャ神話のアンドロギュノス、モイライの三女神によって紡がれ割り当てられ切断される運命の糸、帝王切開、永訣の朝、桃を切って生まれた桃太郎……このように実に潤沢なモチーフがあふれている。抽象的な言い方だが、『一が二になる』『二が一になる』この両方ともが何かの始まりと終わりになりえるのだ。それが人衣一体!神衣鮮血!纏流子は本能寺学園という社会を解体する一寸法師かもしれないといつだったかの記事で書いたが、その場合流子は個人を本能寺学園の生徒という役割から切り離す役割を持った、ハサミなのだ。

ところで、流子は父親が何者かに殺されたことに苦しんでいるが、父の仇を討つのではなく「父さんのことが知りたいんだ」とマコに語っている。父親が死んだことで、父親と話すことが、父親自身を知る術がなくなったことに苦しんでいるのだ。だからキルラキルという物語は纏流子の視点から見ると復讐劇ではない。流子が、父親を殺した針目縫や、その背後にいる力へ復讐する展開があるとしたら、それはあくまで父親を探求する物語のおまけだ。

その大きな力に、鬼龍院家に深く関わり、立ち向かっているのは鬼龍院皐月だ。彼女は本能寺学園をつくった。極制服を仕立て、個々人の能力や適性を伸ばし力を与え、群衆を規律によって統制する。服を着た豚を、人間の域にまで高めるために制服によってがんじがらめに縛る。ここまで綿密に編まれた組織を、他の学校に対する戦争に使っている。こんなにもまとめられ勢力を伸ばしている社会を、対鬼龍院家の戦いに使おうとしている彼女こそが、今後は纏流子を導くだろう。迷宮に入り込んだテセウスには、怪物を殺すための剣や鎧ではなく、アリアドネの糸が必要最低限のアイテムだったようにだ。そうして纏流子は本能寺学園へ転校してくる。さながら『オデュッセイア』のテレマコスや、オイディプス王のような冒険がこうして始まった。纏流子の人生という冒険はかくして続く。


Kill la Kill (キルラキル) OST 01 - Before my body is dry ...

 

ところで、本能寺学園の部活動とか、そこで生きる個人に割り当てられた役割とか、これって一人だけではできないことばかりだよね。ボクシング、テニス、園芸、生物、喧嘩、自動車、サバイバルゲーム、情報戦略、風紀委員、吹奏楽、剣道、どれも自分一人だけではできない。他者と関わって初めて個人は存在できるし、他者と関わってこそ個性を、他者との違いを発揮できる。学校は社会の縮図とはよくいったものだ。